名古屋市に本社を構える「メニコン」の創始者であり現在、会長を務める人物である。
田中は昭和21年、14歳で名古屋市内の眼鏡店に就職。手先が器用で、彼のデザインするメガネフレームは当時名古屋にいた進駐軍の間でも評判になるほどだった。
転機は昭和25年11月。
店をおとずれた進駐軍の将校婦人が「バッグの中にコンタクトレンズを持っている」と言ったのだ。
田中は見せてくれるよう頼むが、壊れると困ると断られた。
見たこともないコンタクトレンズ。
「アメリカで作れるなら自分でも作れる!」反射的に自分で作ることを決意した。
手本も、見本も無い。まさに無からの挑戦。
道具や材料の調達はもちろん、レンズの加工や研磨も自分で行った。
納得のいくカーブを持ったレンズが完成したのは、将校婦人と出会ってから3ヵ月後のことだった。
実はこのとき、とんでもなく画期的なことを田中はやってのけていた。
それはサイズ。
当時、コンタクトレンズといえば白目まで覆う大きさ(強角膜コンタクトレンズ)というのが大学や研究者の間での一般的な考え方。それだけの大きさがないと眼から外れてしまうと考えられていたのだ。
しかし、実物を見なかった田中は黒目だけを覆う、現在のものとほぼ変わらないサイズの「角膜コンタクトレンズ」を作り上げていた。
自分の眼を使い実験を繰り返す田中は、この小さなレンズでも眼から外れることはないということを実証してみせた。
昭和27年に「日本コンタクトレンズ研究所」を設立、翌年には「MTコンタクトレンズ」を発売した。
眼に物を入れるということが受け入れられなかった時代、PRするのにも自分自身の眼を使った。
やがて大学病院などでコンタクトレンズの取り扱いが始まると
扱いが便利で、よく見えることが一気に評判となり、1ヶ月で10万個もオーダーが来るようになっていった。
1982年に社名をメニコンと変更。以降、業界初・日本初・世界初となるような製品を次々と発表するまでになる。
まさにメニコンの歴史は日本のコンタクトレンズの歴史となった。
そんな田中会長の仕事で大切にしていること。
それは「人のマネをしない」。
見たこともないコンタクトレンズを、まさに独学で生み出した男だからこそ、こだわり続ける想いなのだ。 |