開幕したラグビーW杯。前回のイングランド大会では“ラグビー途上国”の日本が、強豪の南アフリカを破り、「ブライトンの奇跡」と称された。
その奇跡を知ったひとりのラグビーファンは、4年前に受け取った「奇跡のパス」を日本代表に、そして日本中に送ろうと、今回を含むW杯8大会に出場した22の国と3つの地域の最高峰の頂にラグビーボールをトライする旅に出た。
愛知県春日井市の長澤奏喜、自称「世界初のラグビー登山家」だ。8月に富士山で最後のトライを終え、壮大な旅に終止符を打った。この企画ではその彼が、旅の喜びや苦労、そしてW杯への思いを連載で伝える。
■アイルランド代表とは国を超えた特別な存在
現在の世界ランキング2位のアイルランドである。つい先日まで1位であったアイルランド戦は日本の予選リーグの中で最大の壁ともいえる。
アイルランドの地を踏んだのは今から2年前の2017年の4月、このプロジェクトをはじめて6ヶ所目だった。ウェールズ、イングランド、スコットランドの遠征を終え、その足で船に乗り、アイルランド島へ向かった。
アイルランド島の玄関口は、イギリスに属する北アイルランド。北アイルランドから隣のアイルランドへは日本の都道府県を跨ぐように標識で地域が変わったことを示されるだけで、検問などの特別なものはない。
しかし、燃料がなくなり、ガソリンスタンドに寄った際、僕は驚いた。北アイルランドではイギリスの通貨、ポンドが使われていたが、アイルランドでは使えなかったからだ。アイルランドはユーロを使用していて、僕は慌てて近場の両替所で換金して支払った。
ラグビーに関して言えば、アイルランド代表はイギリスに属する北アイルランドとアイルランドの合同チームだ。同地域は北アイルランド問題も内在する複雑性を持つ。よくよく考えれば、このことは驚くべきことだ。
アイルランド島のラグビーの絆とは、国際問題や国籍さえも超えた存在かもしれない。アイルランドラグビー代表とかつてアイルランド島を支配していた4部族へのオマージュとも言える。それはアイルランドの代表国旗がアイルランド本国の国旗ではなく、ラグビー代表のエンブレムを使用していることから見てとれる。
アイルランド人のDNAには、フットボールとビールを愛する国民性が脈々と受け継がれている。それらの文化が世界の隅々まで行き渡っている今の時代、人間の生きる喜びを世界に伝えたのは彼らの祖先だ。
■ラグビーへの強いリスペクト アイリッシュパブでは店が揺れた
首都ダブリンの街角にあるアイリッシュパブに僕は寄った。重厚感溢れる赤レンガ造りの建物には、恰幅が良い髭もじゃの男たちがビール片手にラグビーの試合を観戦していた。
この空間には、何世代にも渡って、アイルランド人が大切にしてきたものが凝縮された空気に満ちていた。どこにでもあるジョッキ、どこにでもあるビールサーバーであるが、年季が入っていてずいぶんカッコ良く見えた。
「アイルランド人の血はビールでできている」という言葉は、アイルランド人をユーモアある表現で的確に表していると思えた。
全員が食い入るようにテレビを見ていた。液晶の青白い光で照らされている彼らの表情は、ラグビーに魂を捧げているようにも見えた。応援しているチームがトライを決めた瞬間、腹の奥底から上った雄叫び。店が文字通り揺れていた。
昨今のニュースでもわかるように、ラグビーW杯は世界的なお祭りである。ラグビーの国際的統括組織、ワールドラグビーの本部があるアイルランドは、どの国よりもワールドカップへのリスペクトの念がある。4年に一度のこのお祭りのために彼らは生きていると言っても大げさではないかもしれない。
翌日の2017年4月11日、僕はアイルランドの最高峰、キャラントゥール山(1,038m )に向かった。
■険しい“ルンゼ”の道なき道を登る旅…己の勇気を試されたキャラントゥール山
キャラントゥール山は標高こそ低いものの、山頂にトライするためには、登山口から1時間ほど歩いた場所にあるルンゼ(岩壁に浸食作用でできた急なけわしい溝)を越えなければならなかった。
絶妙なバランスによって岩々が重なっており、ちょっとした風や振動でそのバランスは崩れる。落石事故の多発地帯であり、過去には亡くなった登山客もいると聞いていた。僕が訪れた時も、コロコロと落ちてくる小石があり、一刻も早く200mほどはあるだろう垂直なルンゼを駆け抜ける必要があった。
登山歴2年半の今でこそ、ルンゼは問題なく登れる自信はあるが、当時は山を初めて1ヶ月ばかり。ルンゼ手前で僕はこれからはじまる戦いにビビっていた。
周りには他の登山客の姿はなく、仮に自分が山岳事故に巻き込まれたとしても誰も助けてはくれる人はいない。登るべきか引き返すべきか、とクヨクヨしていた。
落石の音が視界に入らなくても、山にこだまして聞こえてくる。まずは一呼吸置こうと、少し休憩し、自分の中にある恐怖心を見つめることにした。すると、自然の厳しさに対峙し、挑む事に興奮している自分に気づいた。難しければ、難しい挑戦であるほど人はワクワクする生き物であると思う。
■ルンゼを乗り越え3時間半ほどで山頂に…待っていたのは「十字架」
先ほどまでは大きく聞こえていた音が次第に弱まっているのを感じた。そして、風も止み、その一瞬のチャンスに賭けた。始めはゆっくりと一歩を踏み出したが、少しずつ、少しずつ足の回転を速くしていった。
心配していた落石はピタリと止まり、無音な世界が続いていた。ルンゼの中腹に辿り着き、今まで自分が登ってきた急登を見つめると、眼下には絶景が広がっていた。
それに気を良くしてまたスピードを上げて登っていたちょうどその時、僕を支えていた岩が崩れた。当時の状況を正確には覚えていないが、前掛かりに倒れたこともあり、地面と体が接する面積が増え、体重を支えるギリギリの摩擦でその困難を乗り越えた。
高校時代の監督の教えが34歳になった今も体に染みついていたこともあり、倒れてもボールは腕の中にあった。ガッツリと擦り傷をしたものの、幸いにも大きな怪我はなかった。
ルンゼを抜けても足場が不安定な道が続き、山頂付近は雲に覆われ、標高が上がるにつれて霧は濃さを増していった。
危険をかわしながら、およそ3時間半かけて山頂に。そこには、重厚な鉄でできた十字架がそびえていた。ルンゼの恐怖に打ち克ち、恐怖に呑まれない鉄の意志を持った者だけが、その姿を拝めることができる。
これで「日本代表はきっとアイルランドに勝てる」。僕の勇気はきっと日本代表にも届くはずだと信じている。
■いよいよ迎えるアイルランド戦は気持ちの戦いだ!
山をかじった身として感じたのは、晴れると思った時は晴れるし、天候が崩れるとネガティブの気持ちになった時は崩れるということだ。山には理屈では説明できない気持ちの要素が試される。
それはラグビーにも通ずると思う、恐怖心が大きくなれば、やはり相手を大きく感じるものだ。アイルランド戦は間違いなく、気持ちの戦いである。僕は元日本代表でもなければ、ラグビーのジャーナリストでもなく、ラガーマンの端くれでしかないが、日本の勝利を強く願い続けたファンだと自負している。
戦術やマネジメントと言った理屈に関わる部分は、日本代表を取り囲むチームスタッフを信じている、だからおそらくこれ以上にないやり方で僕は日本の勝利を願い続けてきた。
「願う」ことに理屈はない。しかし、「願う」ことは強い。
アイルランドとの試合は厳しい戦いが予想される中、ランキング2位の「肩書」に怯え、悲観的な予想をするファンもいるだろう。アップセット(番狂わせ)が起きにくいラグビーだからこそ、そう思ってしまうのも理解できる。
ただ、思い出して欲しいのは4年前のイングランド大会での南アフリカ戦も、似たような状況だった。あの時のように日本代表を信じようじゃないか。彼らはかつてを超える奇跡を、ここ日本で起こしてくれるはずだ。
世界ランキング2位のアイルランドとはいえ、過去8大会の成績を見れば、1999年と2007年には2度、予選敗退している。常に上位ランキングにいながら、最高成績は8位とワールドカップではいまひとつ実力を出せていないと言っても過言ではない。日本代表が世界ランキング9位ということを考えれば、「肩書」に怯えることはないのだ。
9月28日のアイルランド戦。決勝トーナメントに上がるためにも日本代表は恐怖に屈しず、存分に実力を発揮し、そして勝利をつかみ取って欲しいと願っている。
■長澤奏喜(ながさわ・そうき)プロフィール
1984年10月、愛知県出身(大阪生まれ)。愛知県立明和高校卒業後、慶應義塾大学理工学部を経て、大手IT企業に就職する。在職中にジンバブエでの青年海外協力隊でジンバブエを訪れた際に、世界におけるラグビーW杯の熱を肌で感じる。2016年に退社し、2017年3月、世界初のラグビー登山家となり、2年半で過去W杯に出場した25カ国の最高峰にラグビーボールをトライする、# World Try Project に挑戦。2019年8月27日、日本の富士山で、25カ国すべてのトライを達成。
長澤奏喜HP「I am Rugby Mountaineer」(僕はラグビー登山家)