3月11日で東日本大震災から9年。東海テレビは、福島県川俣町の山木屋地区を震災直後から見つめ続けています。
原発事故の影響で出されていた避難指示が3年前に解除された山木屋地区。そこには故郷に戻りたくても戻れない現状と、オリンピックイヤーの今年復興にかける思いがありました。
■震災から9年…全校生徒4人の“小中学校” 卒業式も
川俣町の山木屋小中学校。
2年前に開校しましたが、小学校は児童がいなくなり、1年で休校に。今は中学1年と3年のあわせて4人が通っています。
3年生の男子生徒:
「こたつにいたときに地震があって、おばあちゃんと一緒に逃げました。記憶…外で遊んでいるぐらいは覚えています」
福島第一原発から西へおよそ40キロ離れた山木屋地区。
避難指示は3年前に解除されましたが、震災前1200人いた住民のうち、故郷に戻ったのはわずか350人ほど。
Q.今日が最後の授業?
生徒:
「(最後に)なるかもしれないけど、ならないかもしれない」
この日は、新型コロナウイルスの影響で全国の学校に「休校要請」があった翌日。
先生:
「これから卒業式練習、始めたいと思います」
できるかどうかわからない卒業式に向けた予行練習。マスク姿の卒業生3人を見送る在校生はたった1人です。
原発事故から9年。今年の卒業生の多くは、小学校の入学直後に避難生活が始まった子供たち。
この山木屋には、故郷を追われたまま戻れない人たちもいました。
■仮設住宅も閉鎖になり都心部へ…「戻りたくても戻れない」
重機が置かれたグラウンド…仮設住宅の跡地です。原発事故のあと、300人ほどがここで避難生活をしていましたが、1年前に閉鎖。今は元のグラウンドに戻す工事が進んでいます。
川俣町・山木屋地区の元自治会長、広野太さん(70)は 原発事故で避難指示が出されたため、故郷を離れて妻や家族とともに避難。
6年にわたって仮設住宅で生活していました。
広野さん:
「これが新しい次のステップの始まりだと思うんですよ。(仮設住宅の)撤去っていうのは、1つの区切り。区切りのときだなと思うんです」
山木屋にあった広野さんの自宅。母屋はすでに取り壊し、かつて息子夫婦が住んでいた離れだけが残されていました。
広野さん:
「今年は(息子夫婦の家)を直して、なんとか形にしたいなと思うんだけど、それかここへ小さなやつ(家)建てるかどうか迷っている最中です」
広野さんや息子たち家族も、福島市などの都市部に生活の拠点を移していて、家族は山木屋に家を建て直すことに反対しているといいます。
広野さん:
「物があると『負の遺産』っていうんですかね。(家族は)あとの処理するのが大変だっていう。生業っていうんですか、生活の基盤が何でやっぱり一番食べていけるかだと思うんですよ。ここで食べていけるものがあれば、みんな戻ってくるんだろうけど。でも、誰かが戻ってきてくれるんじゃないかって期待しているんですよ。孫が戻ってきてここでやってくれるんじゃないかと…」
戻りたくても戻れない「故郷」。人の姿が消えた山里に増えたのは、復興予算で整備された国道と、メガソーラーの太陽光パネルでした。
一方、山木屋に戻った住民も…。
■故郷に戻った住民も…離れた人が少しでも長く一緒にいられる「小さな復興計画」
紺野希予司さん(68)。もともとは町で電気設備会社と雑貨店を営んでいましたが、避難指示の解除後、山木屋に戻り、食堂を開きました。
手打ちそばが名物の店を切り盛りする傍ら、今新しい計画を進めています。
紺野さん:
「ここがコテージ。ここでそば打ち体験とか、郷土料理をつくったりとか。体験できるように」
食堂の隣に建てた2階建てのコテージ。3000万円の建築費には復興補助金を使い、足りない1000万円は自己負担しました。
紺野さん:
「あそこに空き地ありますね。旅館があったんです。震災までは。山木屋って危険だからって、その人の考えなんですがもう全部解体しちゃったんですね。そうすると、彼岸とかお盆とかに、山木屋へお墓参りに来ても、帰っちゃうんですね。だから親戚で一晩泊まって、山木屋の地でこう思い出話とか時間が取れればなって、そういう場所にしたかった」
故郷で家族が少しでも長く一緒にいられるように…紺野さんの小さな復興計画です。
原発事故で、離れ離れになった住民たち。しかし、今年は町に明るい兆しが…。
■まもなく始まる東京五輪の「聖火リレー」は希望の光
3月26日から始まる予定のオリンピック「聖火リレー」。山木屋地区もコースに選ばれていて、復興予算で建てた商業施設「とんやの郷さと」から、街の高台にある山木屋中学校までの全長800メートルを聖火ランナーが走り抜けます。
復興の一つのきっかけになるかもしれない聖火リレー。ランナーには、山木屋中学校の生徒も選ばれました。
選ばれた男子生徒:
「嬉しかったよりビックリはしました。今までいろんな方々が支えてここまで成長できたので、感謝を伝えたいです。この聖火リレーを通して、もっと地域の方々を笑顔にしたいなと思っています」
聖火が灯す明るい光へ期待と、“復興”への思い。
夜、山木屋中学校の体育館からは、賑やかな太鼓の音が…。20年前から地域の祭りなどで演奏されてきた「山木屋太鼓」です。聖火リレーのスタート地点で演奏するため、練習をしていました。メンバーそれぞれが、震災後、福島市など都市部へ生活拠点を移しています。
メンバー:
「太鼓がなかったら、もちろん小さい子たちでも、自分も知らないですし、自分のことも知らないと思いますし、地域の大人の人たちの顔も正直わからなかったと思います」
山木屋に暮らすメンバーはほとんどいませんが、ここ数年、震災後に生まれた子どもたちが、仲間に加わりました。
女の子:
「できるとこまではやりたい」
男の子:
「もっと上手になりたい」
別の男の子:
「もっと人数が増えて、年齢の別がなくて、楽しくできたらいいなって思う」
9年前には戻れない…。それでも、違う形で失った故郷を取り戻そうとしている人々。震災から9年。福島の今です。