愛知県の護国神社では、過去の戦争で亡くなった人を祀っています。毎年、終戦の日には戦地でのどの渇きに苦しみながら亡くなった戦没者を慰めるため、兵士の像に水を捧げる「献水祭(けんすいさい)」が行われています。
参拝に訪れる人に話を聞くと終戦から75年が経った今、それぞれの人が抱く戦争への思いが見えてきました。
■戦没者を祀り国を護る『愛知県護国神社』を訪れる人々
名古屋市中区。官庁街に佇む愛知縣護国神社。毎日、様々な人が訪れます。
参拝にきた女性:
「健康のことですよね、まずは自分たち夫婦とか、子供たちとか、孫たちとか」
参拝にきた男性:
「ずっと毎日来ています。ほとんど毎日。小さい時からお父さんとお母さんとかに連れてきてもらっているから」
参拝にきた専門学校生:
「内定のお礼参りに来ました。(護国神社は)本当にでかい願い事をかなえてくれるって感じですかね」
Q.戦争で亡くなった人が祀られているのは知っていますか?
専門学校生:
「いや、今初めて知りました」
Q.スーツですが今から仕事ですか?
参拝にきた男性会社員:
「いえ、違います。神社に行くときはなるべく正装で行った方がいいかなと。英霊の皆さんは日本を守ろうとしたわけです。未来の日本を守るために亡くなった英霊、兵隊の皆さんに対して何も顧みないというのはこれは失礼じゃないかなと思います」
Q.なぜそこまで強い思いが持てるのですか?
男性会社員:
「どうしてでしょうね、自然と湧き上がってきます」
■父を,夫を…戦後75年 大切な人を亡くした家族の思い
戦争で親族を亡くした人が祈りをささげる「命日祭」。護国神社では、毎日執り行われています。
林さん:
「亡くなった父の命日祭で、毎年8月8日にお参りさせております」
春日井市から命日祭に訪れた、林猛さん(75)。戦争で父親を亡くしました。
林さんの父・三夫さん(享年27)。
林さん:
「久留米に出張に行くところだったようで、敵機が突然来たんでしょうね、爆撃を受けて亡くなったと」
終戦間際の8月8日、仕事で九州を訪れた際に駅のホームで爆撃を受け、亡くなりました。
林さん:
「昭和20年の8月8日、終戦が同じ20年の8月15日ですので1週間違いですよね。もう少し終戦が早かったら命を落とすこともなかったでしょうし」
林さんの母・君枝さん(97)。
夫を失ったとき、猛さんが生まれたばかりでした。
林さんの母・君枝さん:
「これは召集が来て行くときだね…寂しいしよ、行かないでって思うわね。しょうがないわね。結婚して1年しか一緒におらなんだ。すぐ召集に行ったもんでね。私はわやだわ」
林さん:
「やっぱり年数も経ってくると薄らいでくる面がなきにしもあらずですけども、こういう人がこういう風に亡くなったんだよと、二度とこういう犠牲者がでないようにしなきゃいかんなと」
■祖母から孫へ…護国神社が次の世代に伝える「悲惨な戦争」
過去の戦争で命を落とした9万3000人余りの戦没者が祀られている、愛知縣護国神社。
戦艦大和の記念碑。
ガダルカナルで戦死した兵士を弔う石碑。
ここには、遺族らが建てた26の慰霊碑が並び、悲惨な戦争の歴史を今も伝えています。
参拝に来た家族:
「お盆前にみんなで終戦もあるので、お参りに来ようと思って」
祖母:
「私の兄が戦死しているものですから。1日食べる物もなかった頃ですから、忘れないように孫たちに、こんな時もあったんだよって。どこかの耳の底にでも残っていればいいけど」
孫:
「この時代に生まれて良かったなって思う」
最近祖父を亡くした男性も訪れました。
30代男性:
「(祖父は)シベリアに行っていた人なんですけど、話を聞いておけばよかったと思うことが多いんですね」
Q.なぜ、聞いておけばよかったと思うようになりましたか?
30代男性:
「だって自分のおじいさんがそういう思いをしたことも、日本がそういう状況だったことも、全然知らずにここまで生きてきちゃったわけですよ。それは知っておく必要があったのかなって」
護国神社には、戦争についてそれぞれに思いをもつ人が集まります。
■デザインしたTシャツに描かれたのは原爆が投下された日…自分なりに次の世代に伝えていきたい
出会った中に、愛知県日進市で雑貨を販売している男性がいました。
武田光史さん、54歳。護国神社には、毎年訪れているといいます。
武田さん:
「やっぱり、感謝をもってやってないといけないなと思って。これは、若い人とかが原爆投下の日をわかんなかったりするから、教えたいっていう意味で」
武田さん:
「これも6と9って書いてあるのは(原爆が投下された)6日と9日ね。あんまり押し付ける気はないから、自然に学んでほしいなって」
海軍航空隊に入隊していた父親から影響を受け、家族旅行で戦争の跡地を巡ったこともあるという武田さん。次第に自分なりの方法で戦争を伝えたいと思うようになったといいます。
武田さん:
「俺は左でもないし、右でもないなって気持ちで。あのゼロ戦で言うなら左にも右にも羽はあるけど、真ん中にコックピットがあるんだから。そこを目指しているっていうか、真ん中がいいなみたいな」
武田さん:
「その頃が礎になって今があるのだから、絶対感謝したほうがいいと思う」
■「お前の手で育ててくれ」と戦地に向かった父の「遺書」…最期の場所を訪れた娘
兵士をかたどった「献水像(けんすいぞう)」。南方の戦地で喉の渇きに苦しみながら亡くなった兵士達を慰めるために建てられました。
村瀬美枝子さん、76歳。ほぼ毎日、献水像に水を捧げています。
サイパン島で、命を落とした村瀬さんの父・稔治さん。戦地へ向かう前日、生きて戻れないと覚悟し、妻と2人の子供へ遺書を遺していました。
村瀬さん:
「お前の手で育ててくれと、そういうことを書いてあるんですよね」
子どもの教育を第一に。 世間から笑われないように頼む。子供たちを想う言葉の数々が並んでいます。
村瀬さん:
「優しい人だなということはね。生きて帰れるものなら帰りたいと思っただろうね、多分ね」
稔治さんが亡くなったとき、村瀬さんは生まれて5か月。父の記憶はありません。
村瀬さん:
「作文か何か書くのがあって、なんで私にはお父さんがいないのかなって、そういうのを書いたことがあったんです。だからまだ小さいから、母が戦争で亡くなったからいないんだよって言ったかもしれないけど、そんなのね。母が父の分と両方、一生懸命育ててくれたからか不幸だなと思ったことは、あまりないですね」
■護国神社に集う人…共通するのは「平和への願い」
女手1つで育ててくれた母・さなへさんと一緒に、父が亡くなったサイパン島へ行ったこともあると言います。
村瀬さん:
「暗い洞窟みたいなところだったんですよ。でも、さすがにそこへ行ったら涙が出るんですよ。こんな所で亡くなったのって。もうこんなことは二度と起こしちゃいけないなっていうのはありますね」
記憶にない父をたどることができる、唯一の遺書。そこには子供たちへの短歌が添えられていました。
『手枕で 眠るわが子の その顔に 恥ぢない務め 心にぞ誓ふ』
3年ほど前に母・さなへさんが亡くなり、それから毎日のように護国神社へ通うようになった村瀬さん。
村瀬さん:
「なんかここに来ると、ほっとするんですよ。今日も1日守ってもらえるかなって、守ってもらえたかなって。そんな気がする」
護国神社を訪れる人たちに共通していたのは、平和への願い。それぞれの思いを胸に、75回目の終戦の日を迎えました。