名古屋市内などに甚大な被害をもたらした東海豪雨から20年。当時「前例のない豪雨」と言われた東海豪雨ですが、今その規模を上回る雨が頻繁に降るようになっています。
20年が経ち、改めて被災地を取材すると、堤防などの整備だけでは命を守れない大きな課題が見えてきました。
■20年前の記憶…堤防決壊、床上浸水、避難所も水没
20年前の2000年9月、名古屋市西区。道路は、その様子が全く分からないほど泥水に浸かり、住宅は150センチの高さまで床上浸水。
大勢の人が避難した先の小学校にも泥水は押し寄せました。
当時、この映像を撮影した西区中小田井に住む山本秀雄さん(73)。
山本さん:
「ここからここの100メートルくらいが(堤防が)切れたところ。切れる切れると言っても、みんな切れるわけないだろうと思いますよね」
20年前の9月11日、東海地方では台風14号と秋雨前線の影響で夕方から翌朝にかけて豪雨となり、コンビニは水没、道路は川と化しました。
降り始めからの総雨量は年間降水量の3分の1にあたる567ミリにのぼり、名古屋市西区では新川の堤防が100メートルにわたって決壊。
名古屋市や清須市などで、あわせておよそ7万世帯が床上・床下浸水し10人が死亡しました。
■東海豪雨超えが日常に…20年で発生回数も急増
あれから20年…。日本列島では毎年のように「前例のない集中豪雨」が発生しています。
9月6日、稲沢市や三重県四日市市などで浸水被害を出した豪雨も、もはや異例とは言えないほど頻繁に豪雨災害が起きるようになりました。
河川工学が専門の名古屋大学田代喬特任教授は、この20年でより短い時間に集中して豪雨がふるようになったといいます。
名古屋大学 田代喬特任教授:
「降り方が変わってきて、強い雨が集中して降るようになりました。限られたエリアにまとまって降る傾向がどんどん強まってきました」
田代教授は、全国的に1時間150ミリの非常にまとまった雨が降り、瞬間的には東海豪雨を上回るレベルの雨も観測されていることを指摘し、最近はその傾向に拍車がかかっているといいます。
東海豪雨の1時間あたりの最大雨量は97ミリ。当時、 “前例のない雨”と言われましたが、一昨年、岐阜県関市を中心に甚大な被害を出した豪雨では、下呂市で時間雨量108ミリを観測するなど東海豪雨を上回る雨が何度も降っています。
全国の時間雨量50ミリを超える豪雨の発生回数は、この40年以上で1・4倍にまで増加しました。
<環境省が制作した『2100年の天気予報』の音声>
「局地的に激しい雨が降る所がありそうです。雨雲が急速に発達し、局地的には1時間に100ミリを超える猛烈な雨が降る恐れがあります」
これは去年、環境省が未来を想定して制作した2100年の天気予報。1時間に100ミリ以上の雨を予報していますが、すでに現在の天気予報と大きく違わないようにも思えます。
前例のない大雨が日常になりつつある今…。一層の水害対策が求められています。
■20年で進む水害への備えも…命守るインフラ整備の限界
遠隔操作で土が掘り出されている場所は、名古屋駅の南にある中川運河沿いの地下。ここに建設される「広川ポンプ所」は、名古屋駅周辺の地下に溜まった雨水を中川運河に排水する施設です。
その深さは地下65メートルと、名古屋城天守閣がすっぽり収まるほどの大きさ。さらに、このポンプ所につながるのが、名古屋駅周辺の地下50メートルの深さに建設が進む巨大トンネルです。
全長およそ5キロにわたるこのトンネルは、名古屋駅周辺の雨水を地下に溜める施設で25メートルプールおよそ400杯分の雨水を貯められるようになります。
次々と進められるインフラ整備。しかし、そこには大きな課題がありました。
庄内川河川事務所の担当者:
「道路と鉄道橋がちょうど短い区間にかかっていますので、庄内川の中では一番危険な場所です」
名古屋市西区の庄内川にかかる3つの橋。県道と新幹線、JR在来線が通っています。この場所は、ワインボトルのように川幅が急に狭くなっている「ボトルネック」と呼ばれる地形。
そこに3本の橋を支える橋脚が立っていることで流れが悪く、東海豪雨の際には、橋桁のすぐ下まで水が迫り危険な状況でした。
国土交通省は、東海豪雨を受けて川幅を50メートル広げる計画を策定。18年前から堤防を外側にずらす工事が進められています。
しかし、東海豪雨から20年が経った今でも、3本の橋の架け替え工事には着手できておらず、JRの鉄橋2本に関してはまだ、着工の目途も立っていません。
数々の調整が必要で、工事も長期にわたるインフラ整備。前例のない豪雨が相次ぐ今、「ハード面の整備だけでは水害を防げない」と指摘されています。
■洪水と共に生きる…ヒントは『先人の知恵』
災害とその地域の歴史について研究している、名古屋大学の末松憲子研究員は、地域の災害の歴史を知ることが重要で、東海豪雨で決壊した新川の歴史にも災害を未然に防ぐヒントがあったと言います。
末松研究員によると、このあたりはもともと水害の多い地域で、240年前に、この辺り一帯が水没する『安永洪水』という洪水が起こったといいます。
1779年に発生した「安永洪水」。豪雨で庄内川が氾濫し、現在の清須市西枇杷島地区などを、川の水が襲いました。
この安永洪水がきっかけで庄内川につくられたのが、堤防の一部が低くなっている洗堰。
増水した際に、庄内川の水を新川に逃がすことで、庄内川の南側にある名古屋城の城下町を守ろうとしました。
明治28年の新川周辺の地図を見ると、当時の街道以外は、そのほとんどが田んぼ。洪水が起きると、川の養分を含んだ水が流れ込み、豊かな土壌となるため、もともとは洪水と共に生きることが前提の土地でした。
時代の流れとともに、田んぼは住宅街に。
今、240年前のこの歴史を多くの人が知らないように、わずか20年前の東海豪雨の歴史も風化しつつあります。
名古屋大学 末松研究員:
「近年の状況を見ていますと、ハード面の整備だけでは難しいところに来ていて、これまで先人たちがどのように水と折り合いをつけてきたのかを見直す必要がきているかと思います」
■風化する20年前の記憶…今、被災者が抱く思いとは
風化する東海豪雨の被害…。この場所に住む人でも知らない人もいます。
5年前から西区上小田井に住む女性:
「(東海豪雨は)全然覚えてないですね。あれ(新川)も氾濫したんですね。氾濫したイメージがなかったので。初めて知りました」
東海豪雨で被災した住人の男性:
「今建売がいっぱい建っていて、心配になってしまいます。もう大丈夫でしょって皆さん思っていますよね」
東海豪雨で被災した様子を記録していた西区中小田井に住む山本さんは、「20年前私自身もここで何が起きているか、どういう所か分からなかった」と振り返りますが…。
山本さん:
「今は街並みが化粧されて美しくなっていますが、それが化粧をとった時にどんな感じになるか。今自分たちが住んでいる所がどのような所なのかを理解することが必要です」
完成に何十年とかかるインフラ・ハード面の整備だけでは、頻度を増す豪雨から命は守れません。
20年前の教訓を生かし、水害リスクが高い場所を知る。災害時の浸水想定などを示したハザードマップなどで、災害のリスクを知り備えることが必要です。