東京五輪から1年

 東京五輪女子マラソン日本代表の鈴木亜由子選手(愛知県豊橋市出身/JP日本郵政G陸上部)。

 酷暑の札幌で序盤から先頭集団を追いかける展開の中、自分のリズムを意識し後半勝負にかけましたが結果は19位。

 レース後のインタビューでは、涙をこらえ「悔しさ」を滲ませました。あれから1年…。東京五輪での経験や今の思いについて話を聞きました。

鈴木選手:
「東京五輪には、とにかく沢山エネルギーを注入したなって思います。結果は実力通りでしたし、振り返ってみるとまだまだ力が足りなかったなと思っています。

  ただ、本当に色々あった五輪でしたけど、あの場に立って走れたことは、何よりの財産になっています」

Q.レース中はどんな事を考えていましたか? 
「もっと前の位置で勝負して走りたいっていう思いと、体がそこまで行けないっていう、少しチグハグなところを自分なりに修正して最後まであきらめず走って、というところでしたが、ずっとキツかったですね。

 順位を狙うのであれば、もっといい位置でレースを進めるべきでしたし、その点で、ちょっと思い切りが足りなかったと思います。だから中盤で先頭集団に入った時にそこから勝負していく余裕が足りなかったです。

 後半に追い上げましたけど、勝負っていう点では遅かったっていうか、出来なかったので…。そこは反省点というか力不足だったかなって思ってます」

Q.一年延期になった準備期間は?
「なかなか難しかったんですけど、準備期間が長かったからスタートラインにちゃんと体の準備を整えて出来たという部分と、長すぎたなっていう捉え方も出来て、う~ん…、そのバランスが難しかったなって思います。

 ちゃんとスタートラインに立ちたいっていうのと勝負をしたいっていう、難しいんですけど、怪我のリスクを持ってやるべきだったのかとか、でもあの時点では出来なかったですし、本当に結果論ですね。ダメでスタートラインに立てなかったら後悔したし、難しかったですね」

 教訓となっていたのは、2016年リオデジャネイロ五輪での経験。

 5000mと1万mの代表として挑みましたが、本番の前の練習中に脚を痛めてしまい、万全な状態でスタートラインに立てなかった点を後悔しました。

 リオから東京まで5年に及んだ期間は、コロナ禍も加わり鈴木選手にとっても難しい時間でした。

 結果の為に距離とスピードを求める鍛錬の過程で、2020年1月と2021年3月の2度に渡り脚にダメージを抱えました。

 リオデジャネイロ五輪で感じた怪我をしたら元も子もないという思いと、一方で、練習で攻めなければ世界とは戦えないという現実との葛藤…。

「メダルとか入賞とかそういった結果は、地元でマラソンってなるとより求められますし、自分もそこを目指して、しっかりと勝負できる状態でスタートラインに立って、自分のレースをするというのが目標でした。

 ゴールした直後は、ああやっぱり、自分のこういう取り組みだとこういう結果なんだなって。振り返ってみると、やっぱりまだまだ足りなかったんだなと感じました。そこは正直に受け止める事ができています」

五輪の後も続いた葛藤

「自分のベストを尽くせたっていう思いと、もう少し出来たかなっていう思いと、そこの決着がなかなか心の中でつかなかったですね。

 正直、東京五輪が終わって8月は、ずーっと緊張が続いている感じで、9月入ってチームと合流して実業団駅伝に向けてやって行こうって中で、結構強引に体を動かしていく場面があって、前向きにはチームと合流してなれてはいたんですけど、やっぱり駅伝での結果を見るとまだやっぱり、もう少し時間が必要だったんじゃないかって思いました」

 東京五輪後、初の実戦の舞台となった2021年全日本実業団対抗女子駅伝。

 日本郵政として3連覇のかかった大事な駅伝で、鈴木選手は1区を任されましたが、区間14位と出遅れてしまいチームに勢いをもたらすことが出来ませんでした。

「正直、襷を渡した時には一番大事なところでやってしまったなと…。責任を感じました。不安は試合前からあって、気持ちに体が追い付いてきていないなと感じていて、ただ最後の調整期間で調子が上がってくればいいなっていう望みを持っていたんですけど、自分でも把握しきれていなかった部分もあって上手くいかなかった感じです。

 五輪が終わってからも、結構しんどかったので、自分では切り替えていたつもりでもなかなかそうは行ってなかったのかなって、自覚出来ない疲労なんですかね、これは1回リセットが必要だなって…」

温故知新

 駅伝の後、いつまでと期限を決めずに地元の豊橋に帰省。こんなに思い切った選択はかつてありませんでした。

「駅伝の結果次第では、年明けてレースに向けてやって行こうかなってところもあったんですけど…、走ることから一旦離れた方がいいかなって思いました」

Q.絵馬に記した「温故知新」の思いは?
「地元に帰ったっていうのもひとつ、もう一回原点回帰じゃないですけど、新たなやり方とかつかんで、新しい自分を作っていくぞ!って、次に進みたいという思いです」

帰省中の出来事

 帰省中には予期せぬ人からLINEが入りました。相手は、福士加代子さん。4大会連続で五輪に出場した陸上長距離界のレジェンド。

 そんな福士さんとは、合宿先などで少し会話をする程度の間柄でしたが、突然のLINEには、自身の拠点のある京都へのお誘いの言葉がありました。

「福士さんとは、徳之島とかでお会いした時にいつかジョグしたいですって、お話ししたいなって思っていました。私が豊橋に帰ってるよって聞いたらしく、チームメイトと福士さんのチームメイトが友達で、わざわざチームメイトを介して私のLINEを聞いて連絡を下さったとの事で感動しました。

『帰ってるって聞いて連絡しました!元気ないって聞いたけど、京都に遊びに来たらええやん!』って。二つ返事で『行きます!』って…」

 京都では、福士さんと共に47歳の現役マラソンランナー小崎まりさんも待ってくれていました。

「小崎さんと3人で鴨川の辺を歩いて、ずっと陸上の話をしてました。ずっとトップでやってこられた方々は本当に陸上が好きなんだなって、考えてやってこられたんだなって。今後は『あの時やっちゃいました!』ぐらいの感じで、もっと楽に肩に背負っているもの降ろしてやっていいんじゃない?っていう感じの話とか。

 走りについても一緒に考えてくれましたね。福士さんはずっと楽に走るということを追求されていて、細かいことはいいづらいんですけど…。自分の走りだけじゃなく、後輩の成長とか、もの凄く大事にされているなって感じるので尊敬します。困ったら相談できる先輩が出来たっていうか、存在が大きいですし、ありがたいなって。小崎さんも気にかけてくださって本当にありがたいです」

走りたいという気持ち

 地元での長期休養を経て2月からはトレーニングを再開。

 その後は月に一度、試合で走ることをテーマに4月は、熊本で3年ぶりに1万mに出場。5月は、山形で5000mに。

「これまでと違う流れで、月一本レースをしていくという形でやっていてタイムはまだまだなんですけど、1レースごとに状態は上がってきてるので、着実に自分の歩みを進めていければいいかなと思ってます」

 6月は、単身ニューヨークに渡り10キロ走にもチャレンジしました。

「ニューヨークは経験値が上がりました。行かないと分からないですし、海外勢のアグレッシブさとか感じましたし、交流も出来ました。一緒に走る事でリズムをもらっていい感覚をもらえたので、人間やっぱり刺激が必要だなって思いましたね」

 7月は、北海道で5000mと1万mにトライ。

「1本、1本、目的を持って臨んで結果を見てまた次につなげて行くっていう過程をいま積んでいます。トラックで現状の力を確認しつつ、マラソンという道を探っているところなので、一本マラソンをやはり形にしたいなと思ってます」

乗り越えた、いま

「2年後のパリ五輪は、可能かは別として、やっぱりマラソンで目指したいです。その為にまずは、MGCの権利をしっかり取りたいなって思っています。

 リオの時は足痛くて走れなくて悔しかったですし、切ないなって思ったんですけど、今回の方が心が痛いなって感じます。足の痛みと自分で消化しきれない心の痛みと両方経験して、今度はもう何も怖いものないなって。

 次目指すとなると結果を取るか、安全策を取るかといったら、怪我をしても掴みに行く選択をします。どんなレースでも今回の経験をしたことで、絶対に迷ったら攻めるだろうし、そこに対する怖さは無いんじゃないかなって思います。自分自身、マラソンランナーとしてまだまだこれからです」

Q.日々、楽しいですか? 

「日々、楽しいです!それなりに元気でやってます(笑)」