戦後76年がたった今も、空襲被害者への補償問題は解決されていません。高齢となり年々被害者が減る中、なぜ未だに救済への道が開かれないのか…。取材をすると、「国との雇用関係がない」ことを理由に補償の対象外となるなど、“置き去り”にされた被害者の姿がありました。

■痛くて痛くて…名古屋空襲で焼夷弾の犠牲となり歩けなくなった男性

 名古屋市北区の脇田弘義さん(83)は、76年前の名古屋空襲で「歩く自由」を奪われました。

脇田さん:
「起きる時、お母さんに引いてもらわな。寝とって、『起きてこい』って言われても起きれん」

【画像20枚で見る】補償問題が解決されぬまま減り続ける“民間の空襲被害者” 放置された国からの救済

 1945年5月14日、約500機のB29が名古屋を襲いました。名古屋城の天守閣も炎に包まれ、300人以上が犠牲に。当時7歳だった脇田さんは、市内の自宅近くを家族と歩いていた時、焼夷弾の炎に襲われたといいます。

脇田さん:
「飛行機が上から来るじゃん。みんな燃えちゃうの全部。その時に脚が…ここへ(火が)飛んできた。苦しいだかもうわかれへんわ、痛くて痛くて」

 1970年代に撮影された映像の中に、脚だけでなく顔や手も火傷をした脇田さんの記録が残っていました。

脇田さん(1970年代):
「伸び縮みがないもんですぐ(ひび割れる)…。寒いとね、余計冷たくなっちゃう。こう匂い嗅いでみても、火傷の臭いがするね。なんか変な臭いするよ」

 結婚し3人の子宝にも恵まれましたが、空襲で障害を負ったことへの国からの補償は1円もなく、服の仕立ての職と妻の収入でなんとか暮らしていました。

■「国との雇用関係ない」と一蹴も…訴え続ける名古屋空襲で左目を失った女性

 そんな時に出会ったのが、名古屋空襲で左目を失った杉山千佐子さんです。杉山さんは、1972年から国に対して民間の空襲被害者への補償を求める運動を始めていて、脇田さんもその運動に参加しました。

杉山さん(当時):
「(眼帯を取って)こんな顔です。こんな顔でも政府は一銭も出してくれません。なぜでしょうか。『国との雇用関係がない』。たったその一言ですよ」

 戦後、国は軍人や軍需工場などで働いていた人とその遺族には恩給や年金を支給しました。累計の総額はおよそ60兆円にもなります。ところが民間人は、「国との雇用関係がない」ことを理由に補償の対象外とされました。

■50万円の特別給付金を支給する法案まとめるも…自民党内で合意得られず国会に提出されず

 杉山さんや脇田さんたちの働きかけで、これまでに14回、民間の空襲被害者を救済する法案が国会に提出されましたが、いずれも審議未了で成立しませんでした。戦後75年の節目となった2020年10月には…。

空襲議連会長の河村建夫元官房長官(2020年10月):
「イタリアやドイツ、そういう国々は(民間空襲被害者の)戦後補償をやっている。忘れられた戦後補償のあり方として提案をしたい」

 与党・自民党の議員も参加した超党派の議員連盟が、戦後初めて民間の被害者を救う法案をまとめました。空襲などで心や体に傷を負った生存者に対し、1回限りで50万円を支給するという内容です。

 当事者たちの求めからは対象も額も大幅に絞られていますが、それだけに実現の可能性が高く、今年の国会で成立するのではと期待されました。しかし、法案は自民党内で合意を得られず、国会に提出されることすらありませんでした。

■みんな亡くなっちゃう…置き去りのままの民間の空襲被害者

 2021年8月10日に、東京墨田区で開かれた「民間空襲被害者の会」。

全国空襲連の吉田由美子共同代表(集会で):
「国からの謝罪と補償を勝ち取るまで、決して諦めることなく…。今一度、心を1つに力を合わせて頑張っていきましょう」

 高齢になり、減り続ける被害者たち。運動の旗振り役だった杉山千佐子さんも、5年前に101歳で亡くなりました。

 空襲で歩けなくなった名古屋市北区の脇田さんは、国が補償を拒み続けるうちに、被害者が声を上げたことさえ忘れ去られてしまうのではと感じています。

脇田さん:
「みんな死んじまったわ。(残っているのは)少しだけ。(補償を)今やりゃいいけどね。みんな亡くなっちゃう。誰か一生懸命しないかんのだけど、みんな忘れちゃう」

 戦後76年、民間の空襲被害者の救済は放置されたままです。