障害者野球で前向きに…生まれつき左手の指ない野球選手が“もう一つのWBC”へ「感動してもらえるプレーを」
“もう一つのWBC”といわれる、障がい者の国際野球大会「ワールドドリームベースボール」が、2023年9月9日と10日の2日間、名古屋で開かれる。
地元・名古屋のチームから選ばれた飼沼寛之(かいぬま ひろゆき)さんは、生まれつき左手の指がない。
障がいがあることで引け目を感じていた自分を変えてくれた野球。大会では「感動してもらえるプレーを見せたい」と意気込んでいる。
■“もう一つのWBC”日本代表 走塁を武器に連覇目指す28歳の選手
愛知県愛西市出身の飼沼寛之(かいぬま ひろゆき 28)さんは、障がい者野球の日本代表選手だ。「JAPAN」のユニフォームを着るのは3回連続3度目だ。
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飼沼寛之さん:
「代表ということなのでしっかりやらないといけないなと、気持ちは引き締まる感じはありますね。連覇もかかっていますので。ひとつでも役に立てるような形で、貢献できるようなプレーをしたい」
飼沼さんの最大の“アピールポイント”は走塁だ。障がい者野球では、下半身に障がいを持っている選手には、打者代走が認められている。
下半身に障がいを持つ選手が打席で打つと、飼沼さんが走ることもある。
飼沼さん:
「僕は塁に出てかき回すというのが、一番の役割になるかなと思うので、そこをしっかりやっていきたいです」
■障がいで引け目を感じていた飼沼さん 変えてくれたのが野球
主にセンターを守る外野手の飼沼さんは、生まれたときから左手の指がなく、フライは右手で捕球したらグローブを外し、そのまま右手で投げている。
自分が障がいを持っていることを飼沼さんが認識したのは、保育園の時だ。
飼沼さんの母・昌代さん:
「手が生えてくるの?って聞かれまして…。でも『大人になっても手が生えることはないよ』というのは伝えました。」
飼沼さんは障害があるということを引け目に感じていたという。
飼沼さん:
「引っ込み思案というか、隠して生きていくという」
そんな時に出会ったのが野球。9歳のとき、きっかけは父親とのキャッチボールだった。
飼沼さんの父・義広さん:
「もともと野球が好きだったから、息子とはキャッチボールをやりたいなとは思っていましたね。寛之でもできるんか、できそうだなっていう感じで」
母・昌代さん:
「やってみてできなかったら、その時に自分の中で選択すればいいかと思うので。やる前から諦めてほしくなかったというのはありました」
■入団したチームでの新たな出会いが人生をさらに前向きに…
そして中学1年生の時から、名古屋市守山区で活動する障害者野球のチーム「名古屋ビクトリー」に入団した。
このチームで、自分のように生まれたときからの障がいではなく、事故や病気でのちに障がいを持った人と出会ったことが、飯沼さんを前向きにしてくれたという。
飼沼さん:
「途中で腕がなくなったり、足がなくなったりっていう方がどっちかっていうと多くて。自分が同じ立場だったら、後ろ向きになるような出来事を前向きというか、笑って話せるっていうのがすごいなって。もっと頑張れるなって、前向きになったところが、ビクトリーに入って1番大きい影響があったところだと思います」
野球で知った「前向き」に生きるということ。それは私生活にも変化をもたらした。交際期間6年を経て、現在の妻・春奈さん(28)と入籍した。
飼沼さんの結婚指輪は、右手の薬指だ。
2023年8月には第二子も誕生した。
飼沼さんの妻・春奈さん
「娘が生まれてからは、本当に娘のことを大事に思っていて。疲れていても面倒みてくれるし、一緒になって全力で遊んでいたりして、そこは感謝しています」
■父との6年ぶりのキャッチボール…大会では「感動してもらえるプレーを」
お盆休みには、娘を連れて実家に帰省した飼沼さん。父や母、そして妹2人と家族団欒の時間を過ごした。
2人の妹も、兄について「優しい」「何でもできてすごいかっこいい」と誇りにしている。
この日は、子供の頃に野球を始めるきっかけとなった父・義広さんと約6年ぶりにキャッチボールした。
当時、投げ方を教えてくれたのも義広さんだった。
今では3度も日本代表に選ばれるまでに成長した飼沼さん。このキャッチボールこそが、日本代表、そして世界一の夢への第一歩だった。
飼沼さん:
「野球と出会えなかったら、今の自分はないかなって思っています。すごい感謝して今後もやっていきたいと思います。目標は2連覇をするということで、感動していただけるプレーを少しでも多く見せることができたらなという気持ちでプレーしたいなと思っています」