球場は旧日本軍の飛行場跡地に…79回目の「終戦の日」ドラゴンズ2軍キャンプ地・沖縄県読谷村と戦争の歴史
2024年8月15日、79回目の「終戦の日」を迎えた。ドラゴンズの2軍キャンプ地としても知られる沖縄県読谷村(よみたんそん)の「オキハム読谷平和の森球場」は、かつて沖縄戦のきっかけとなった「飛行場」の跡地だ。
野球で賑わい、人が集まる憩いのこの球場は、村民が長い時間をかけて築き上げた平和の象徴だった。
■狙いは日本軍の飛行場…沖縄戦が始まった読谷村
沖縄県読谷村の「オキハム読谷平和の森球場」は中日ドラゴンズの2軍キャンプ地で、毎年2月のキャンプでは、大勢のファンが訪れる。球場名には「平和」の文字が使われている。
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この平和の森球場から2キロほどのところにある「チビチリガマ」は、子供を含む83人が、集団自決に追い込まれた場所だ。
母親が自分の子の首を鎌で切り、腹を刺し、自分も手を切って亡くなった人もいるという。
読谷は、沖縄戦が始まった地だ。1945年4月1日午前5時半、読谷村の渡具知(とぐち)海岸。
アメリカ軍は200隻を超える軍艦から、わずか20分でおよそ10万発の艦砲射撃を決行し、20万人が命を落とした沖縄戦がここで始まった。
午前8時半、アメリカ軍は読谷海岸に上陸。
アメリカ従軍記者アーニー・パイル:
「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。しかも1発も弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで。おまけに我々は、砂浜に座り込んで七面鳥の羽をしゃぶったり、オレンジジュースを飲んだりしたものだ。それは、まるでピクニックのようなものであった」
読谷が狙われたのには理由があった。中心部には当時日本軍の飛行場があり、アメリカ軍はここを占領し、本土攻撃への拠点にしようと考えたからだ。
村を悲劇に導くきっかけとなった飛行場。
その飛行場の跡地が「オキハム読谷平和の森球場」だ。
■パラシュートからトレーラーが落下し小5女児死亡の事故きっかけに村民の怒りピークも…基地を巻き込み野球場の建設へ
読谷村役場の元職員、小橋川清弘(こばしがわ・きよひろ 66)さんと山内明秀(やまうち・あきひで 66)さんは当時、球場の建設に携わった。
それは、戦後も続いた長い闘いの歴史だったという。読谷村は終戦後、村の土地の95%をアメリカに占領され、かつての日本軍の飛行場は、そのままアメリカ軍の基地となった。しかし、そこはもともと住民の土地だった。
読谷村役場の元職員 小橋川清弘さん:
「1943年の夏くらいから、日本軍が強制的に土地を接収して『戦争が終わったら土地は返すから』っていうことで、突貫でこの飛行場を作った。ところが戦争が終わったら返すという話は立ち消えになっちゃう。一生懸命自分たち『帰りたい』って言うんだけど、返してくれないんですよ」
村民たちの思いをよそに、アメリカ軍はこの飛行場で、連日のようにパラシュートで降下訓練を実施し、数々の落下事故が起きた。
そして1965年、パラシュートに吊るされた重さ2.5トンのトレーラーが落下し、小学5年生の女の子(当時11)が下敷きとなって圧死する事故が起こり、村民の怒りはピークに達した。
小橋川さん:
「出勤したらすぐ村長が『おい、きょうパラシュート降下訓練あるから、窓口の職員を残してみんな飛行場に集合!』とかって言うわけですね」
読谷村役場の元職員 山内明秀さん:
「スピーカーで音響大きくして出したりとか。(訓練反対の)でっかい凧作って空に掲げて」
そして村民の悲願、飛行場返還実現のため、村は大胆な一球を投じた。
読谷村の山内徳信村長(当時映像):
「私たちは基地を避けての村づくりは基本的に進めないという考え方です。『基地をも抱き込んで』村づくりを進めていく」
それは「野球場の建設」だった。“アメリカ軍も村民も共同で使える施設”として提案したが、もちろんアメリカ軍の許可を得なければならないため、村が考えたのは「“文化”で心を動かす」ことだった。
小橋川さん:
「読谷村の文化の粋を集めた『読谷まつり』に司令官たち呼ぶんですよ、招待するんですよ。するとみんな『よかった』『感動した』って帰るわけです。『あの祭りすごかったでしょ?あれだけの文化をもった村民が住んでいるのが読谷村なんです』と。祭りをみて感動する、心が動く、そういう心を動かすくさびというのが、実は“文化のくさび”なんです」
こうして1987年、かつて戦争のきっかけとなった飛行場のまさにその場所の一角に「平和の森」球場が誕生した。
山内さん:
「(完成した時は)もう皆といっしょで『とってもすごいな、やったな、やっとこれで返ってくるのかな』という思いはありました」
その後、飛行場の全面返還が実現したのは2007年。長い道のりだった。
小橋川さん:
「基地というものは戦争につながる。人を殺す、文化を破壊する。逆に文化というのは人々が活動したものが開花した状態。野球も文化なんですよ。だから中日ドラゴンズがこっちにこられてずっとやっているんだけれども“野球文化”という視点から、今度は平和な社会を作るためのアプローチというのも考えていただければいいのかなと思うんですね」
■毎年のようにキャンプ地を訪れたドラゴンズのレジェンドは兄を沖縄戦で失う
ドラゴンズの歴史に名を残す往年の名投手で、2023年6月に亡くなった「フォークの神様」、杉下茂さんも沖縄に特別な思いを寄せていた。
沖縄戦の戦没者24万2225人の名前が刻まれている「平和の礎(いしじ)」に、「杉下安佑」さんという名前がある。
杉下さんはドラゴンズの沖縄キャンプを毎年のように訪れていて、90歳を超えても若い投手の指導への熱意が衰えなかったが、もうひとつ沖縄に訪れる目的があった。
8月3日、東京の、杉下茂さんの長男の茂治さん(73)の自宅を訪ねた。
杉下茂さんの長男の茂治さん:
「沖縄行っても、戦争の思い出ってあんまりいいものがなかったのかもしれない」
杉下さんに野球を教えたのは、4つ上の兄、安佑(やすすけ)さんだった。その安佑さんは1945年3月21日、“人間爆弾“と言われた特攻機=「桜花(おうか)」で沖縄の海へ。24歳という若さで、この世を去った。
茂治さん:
「(杉下さんの)兄貴(安佑さん)のほうが、野球とか何をやらせてもすごかった。だから親父(杉下さん)は『兄貴にかなわない』っていう気持ちはずっと持っていたみたい」
杉下さんは97歳で亡くなったが、自身も陸軍に召集された経験があった。
戦争は杉下さんの兄・安佑さんから野球と未来を奪った。
杉下さんは、2020年8月14日の東京新聞の朝刊で「兄は野球がうまかったから、無事でいたら私を上回る野球選手になっていただろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない」と答えていた。
■心と平和の創造の泉や森に…野球場に託された願い
平和の森球場にはこの夏も、球児たちの声が響いていた。
読谷村役場の元職員 山内さん:
「もう最高ですよ。本当にね。まわりに木があるんであそこウォーキングされていますよ。真夏も歩けるんですね、陰になって。とってもいいところ。本当に“平和の森”っていう」
読谷村役場の元職員 小橋川さん:
「読谷でキャンプをするときに、『ああいうところだったんだよな』って思いながら、私たちと共に、野球文化というところで今つながったので、そういったエネルギーでもって、そこに平和というものの位置づけを、野球というスポ―ツ文化の中にも位置付けてもらえればありがたいなと」
平和の森球場の碑文には「この地が戦場につながる軍用場でなく、小鳥さえずる平和な広場となり、人々の心と平和の創造の泉となり、森となることを願う」と刻まれている。
2024年8月15日放送