希少な木材を外壁用に加工…5年前炎に包まれた世界遺産『首里城』復元に活かされる愛知のモノづくり技術
2019年10月、沖縄県那覇市の世界遺産「首里城」が、火災で焼失してから5年余りが経ち、今も復元する作業が続けられている。愛知県弥富市の「ヤトミ製材」が独自の技術を活かし、復元に一役買っている。
■製材が難しい「イヌマキ」を外壁に…技術力買われ首里城の復元に携わる「ヤトミ製材」
那覇市の世界遺産「首里城」は2019年10月31日、火災で一夜にして焼失した。
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悲しみの光景から5年あまり、全国から貴重な木材が調達され、着々と復元工事が進められているが、この復元に一役買っているのが、弥富市の「ヤトミ製材」だ。
従業員25人の「ヤトミ製材」。社長の加藤徳次郎さん(58)は、首里城の復元で沖縄を訪れた際に、思い出として買ってきたというハブの形をしたボールペンを「なんか気に入っているんです」と笑顔で見せてくれた。
加藤社長が見せてくれたのは、琉球王朝時代の首里城でも使われていたとされる「イヌマキ」という木材だ。首里城の外壁材として使ったものの残りだという。
ヤトミ製材の加藤徳次郎社長:
「水に強い、白アリに強い、それが圧倒的な特長です。(今は)ほとんどない。装飾的な意味合いで、生け垣として使うことが多いですから、圧倒的に流通が少ないです」
成長が遅く流通量が少ないうえ、製材も難しいといわれているが、業界有数の技術力から、首里城復元に向けてその加工を任された。
熊本県の実業家が保管していたという「イヌマキ」には、無数の釘が打ち込まれていた。300本もの丸太すべてを金属探知機でチェックして取り除く予定だったが、納期が迫り、釘を抜かずに強引に大型の製材機にかけたことで、シャフトが折れるトラブルもあった。
何とか厚さ20ミリの均一な短冊状に仕上げ、2024年4月までに1400枚の板を無事納品し、蘇った首里城の一部になるという。
加藤社長:
「検査内容のレベルが半端ない。とにかく比率が絶対、一切の妥協を許さない。延々と。『本当にこれ終わらないぞ』という無限の製材でした」
■「たらい回しにされた仕事」も受ける…地域の祭りで使う山車にも貢献
建築会社などから木材の加工を請け負う「ヤトミ製材」は、伊勢湾近郊の立地を生かした貯木場で、“水中貯木”と呼ばれる日本古来の方法で木材を保管している。
水中では酸素や日光が遮られ、丸太の変色、腐食を防ぐ効果があるが、管理の面でも高い技術が必要だ。
丸太自体が足場で、そもそも足場が悪く、そのうえで非常に複雑なロープワークをするため、高い技術と体力が必要だが、若手社員も見事にやりこなすという。
加藤社長は、若手社員からも慕われているようだ。
若手社員:
「とても人柄がよく、チャレンジ精神がすごくて。誰もが無理だと匙を投げるところも、積極的にやりますと声を上げるところに、みんな惹かれている」
木材の供給は不安定で、需要も減少し、業界全体が衰退へと向かっているが、加藤社長の元には、企業以外にも全国から多くの依頼が寄せられている。
加藤社長:
「言い方失礼ですけど、たらい回しにされた仕事を私は受けるようにしています。自分がそれで仕事をしていますから。手仕事ですから、これを私がやってあげなきゃという思いでやっています」
地域の祭りで使う山車の車輪、ゴマにもヤトミ製材の技術が活かされていた。半田市成岩(ならわ)地区の「東組旭車(ひがしぐみあさひぐるま)」のゴマを作ったのがヤトミ製材だ。
成岩地区の杉江恒巳さん:
「このゴマを作れるところが全然ないもんですから。インターネットで探して、やっとここならなと思ったので話を聞きに伺って。そうしたら社長から『何とかできそうだよ』ということで、作ってもらった」
芯棒を通すために丸太に穴をあける難しい作業だったが、見事にやり遂げ、周囲を驚かせた。
加藤社長:
「みんな商売として話を持ってくるわけではないんですね。『やってくれんか』という形で話が来ます。それに対して、当然やりましょうという気持ちになる」
■“奇跡の一本松”のモニュメント化の仕事では「強烈なバッシング」も
期待に応えようとする「思い」と、丸太に穴をくりぬく「加工技術」から首里城の復元同様に取り組んだ事業があった。東日本大震災で津波の被害に耐え抜いた復興のシンボル「奇跡の一本松」の加工だ。
松の木自体は海水に浸かり枯死したが、後世に受け継ぐモニュメントとして残すため、前例のない木材加工を任された。一本松を3つに切断してから、内部に「芯」を通すため、チェーンソー式の穴あけ機で、少しずつくり抜いていく慎重な作業だった。許される誤差は、わずか3ミリだったという。
加藤社長:
「非常に不安定な機械で、人間の技術力だけで、木の硬いところ、柔らかいところ、木の割れですね、内部にある。その感触を感じながらゆっくりゆっくり加工していきます。朝未明から夜は11時ぐらいまで延々と延々と穴を開けます」
しかし、この作業では期待だけでなく、強烈なバッシングもあったという。
加藤社長:
「奇跡の一本松にお金をかけるのか、そのお金を被災した人たちに配ったほうがいいのではないかとか」
耳に届く様々な声に重圧を感じながら、足を運んだ陸前高田の地で、その後にもつながる覚悟が決まったという。
加藤社長:
「その辺の野原に咲いている花をちぎって、置いてみんなが祈っているんですよね。地元の人たちはそれこそ希望ですよね、何かの拠りどころ、亡くなった家族のために祈りを捧げているのか。それを見た時に迷いは一切なくなりました。それで木に触れて、その時に木に約束したんですよ。『必ずまたここに立たせてみせるから』って」
奇跡の一本松はいまも「震災遺構」として姿を見せている。
■社長が難題に挑む理由は「俺に任せろという職人気質」
2024年10月3日、加藤社長は工事中の首里城を訪れた。そこにあったのは、何度も検品を繰り返したイヌマキの板だ。正殿の屋根の下に、外壁材として取り付けられる。
加藤社長:
「イヌマキの切れっぱしが積んであるんです。それを見てね、そこに我々の努力の跡が残っているんです」
出荷前、品質を見定める厳しい検査では、何度も再加工を求められた。
加藤社長:
「部材番号が1回書かれたものが消されて次の番号が書かれて、それすらまた棟梁にダメ出しくらって消されてまた次の番号、それが無数にくちゃくちゃの番号がそこにある、我々の努力でそれを見てよく頑張ったと思いました」
棟梁:
「そんな厳しくないです。私よりヤトミ製材さんのほうが苦労されていると思うんですけど、最終的には成功事例で終わらないといけないので、よかったねと話をしました」
5年前、炎に包まれた沖縄のシンボル。今では、宮大工たちによる復元工事の様子が公開されるなど“見せる復興”が進められている。
加藤社長:
「なぜ受けるのかな、なぜ受けるんだろう。たぶん、昔の日本だったらみんな受けるんじゃないかな。職人気質だろうね、やってやろうという、俺に任せろという。僕の場合そんなかっこいいものではないけどね」
2024年11月29日放送