A級戦犯の処刑報告書も…なぜ昔からある史料で『新発見』あるのか 関わった人たちに共通する“知識と興味”

11月08日更新

23歳の大学生から投稿がありました。「以前、『A級戦犯の処刑報告を発見』というニュースを見て、なぜ戦後70年以上もたってから発見されたのか疑問に思いました。戦争にまつわる故人の遺品などが新たに確認された、といったニュースもいまだによく見かけます。偶然なのか、何か理由があるのか調べてもらえないでしょうか」

戦争に限らず昔の史料や遺跡などが、なぜ長い年月を経て“新たな発見”としてニュースで報じられるのか。新発見に関わった関係者たちを取材すると、その意外な経緯や思いなどがありました。

■BC級戦犯の史料を探していたら…偶然発見した「A級戦犯の処刑報告書」

今回の投稿のきっかけとなったのは、2021年8月12日付の新聞に掲載された「A級戦犯の処刑報告を発見」という記事。第2次大戦後の「東京裁判」で死刑判決を受けた、東条英機元首相らA級戦犯について、7人の処刑を「正確に執行した」などと記したアメリカ軍の公文書が新たに見つかったという内容です。

<執行完了の報告書より>
効率的な方法と軍隊的な正確さで(刑を)執行した。予期せぬ出来事は起きなかった。

刑が執行されたのは、70年以上も前の1948年。なぜ今ごろになってこのような文書が発見されたのか。この貴重な文書を見つけたのは、法学が専門でBC級戦犯の裁判についての調査・研究に取り組んでいる日本大学・生産工学部の高澤弘明専任講師です。

高澤講師:
「アメリカの国立公文書館に戦後の日本の史料、外交文書をはじめとする全て入っておりますので、研究者は訪問して色々調べています」

高澤さんは、2018年春にアメリカの国立公文書館を研究のために訪れました。その目的は、東京裁判とは別の裁判史料を探すためでした。そしてBC級戦犯の史料を期待して箱を確認したところ、ローマ字で書かれた「Tojo(東条)」という文字が目に…。

高澤さんは、最初見つけた時「東条さんのがあるんだ」程度だったといいます。

■知識がないと史料を台無しにしてしまう…3年間放置した資料が実は「新発見」

A級戦犯は専門外だった高澤さんは、史料の量も膨大でコピー費用もかかることもあり、とりあえず持参したカメラで撮影。

高澤講師:
「読まずにとにかく、写真をどんどん撮っていって…。1日300枚とか700枚とか…」

日本に持ち帰ったA級戦犯のデータは、その後3年間はパソコンの中に保存したままで、高澤さんも「興味がなかった」といいます。しかしある取材を受けたのをきっかけに史料をじっくり読み込んでみると、どうやら知られてない史料だということに気付きました。高澤さん、さらに「意外な事実」を話します。

高澤講師:
「今回、僕が初めてこのボックス開いたわけではなくて、以前に日本人の方がどうも見ている節があるんですね」

ボックスからは、日本語で書かれたメモや付箋が…。高澤さんより先にこの史料を見た日本人がいたとみられますが、この史料が貴重なものだとはその人も気付いてなかったようです。いくら貴重な史料を見ていたとしても、その「価値」に気づかなければ「発見」されないままに…。

高澤講師:
「自分の興味関心、あるいは持っている知識によって、その史料を生かしたり、そのまま放置するような…。それが如実に今回出た…」

「知識を持っていないと史料を台無しにしてしまうことを痛感した」と高澤さんは話します。

■名古屋城で兵士が吹いたラッパを発見…戦争体験世代の遺品整理で見つかる貴重な史料

同じ戦争の史料でも、別の形で新たに発見されるケースが「遺族からの提供」です。名古屋市名東区にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」。

毎年12月に開催される「戦争体験者の遺品展」に寄せられた遺品から、新たな事実がわかることも少なくありません。今回集まった115点の中にも、こんなものが…。

ピースあいちのスタッフ:
「第3師団、名古屋の。そこでラッパの訓練手というか、お父さまが訓練で使われていたもの」

色が黒ずみ年季の入った「ラッパ」は、戦時中に名古屋城周辺に拠点を置いた陸軍「第3師団」で使われていたとみられます。名古屋城周辺では当時、起床や就寝の時間を告げるラッパを石垣の上で兵士が吹いていた、との証言も。90歳で亡くなった父親の遺品を寄贈した渡辺真佐信さんは、遺品整理をしていたら見たことがないこのラッパを見つけたといいます。

ラッパを寄贈した渡辺さん:
「(父が)大事にしまっていたのか…。二度と起こしてはいけない戦争の一つの遺品として置いてもらえるといいかな」

戦争を体験した親世代が亡くなり、自宅の遺品整理などをしている際に見つかるケースも多いといいます。ピースあいちの館長は、「子供や孫の世代による戦争に関する遺品の資料館などへの寄贈は、戦後76年の今も続いている」と話します。

■たまたま歴史好きの男性が発見…ある理由でこれまで発見されなかった6世紀の古墳

時を超えて見つかる歴史的な史料は、戦争に関するものだけではありません。2020年12月、三重県伊賀市の依那古(いなこ)地区では、大和政権が支配した6世紀後半のものとみられる古墳の一部が見つかりました。発見者の一人である福森昌生さん(79)と、ヒノキが生い茂る山道を進んでいくと…。

福森さん:
「これが古墳…。石室、昔の偉いさんを埋葬する…。見て、おかしいなと思ったんで、あれ石室やなと思って…」

周りには大きな石が転がっていて、当時の権力者の遺体を納める「石室」と呼ばれる空間が手前に広がっていたことが想像できます。この「新発見」は偶然でした。でも一体なぜ、これまで発見されてこなかったのでしょうか。

その理由は、この古墳のすぐ前に長年お堂が建っていたから…。しかし、50年ほど前に起きたぼやでそのお堂が移設され、古墳が見える状態になっていたといいます。

福森さん:
「興味がなかったら、ああ石があるなと思うだけ。石室とは思わへんけど。(伊賀)市へ『古墳みたいなもの、市に登録してあるか?』と聞いたら、『登録してもらってないもんで、新発見ですわ』と」

歴史好きが、「新発見」に繋がりました。古墳新発見のニュースは、報道で大きく取り上げられるなど反響が。思わぬ歴史の発見者となった福森さんは、「依那古地区は大和政権の近くで、古墳時代には相当力のあった人が在籍していたのは事実。この古墳を地域の財産として残してほしい」と話します。

戦争に限らず、昔の資料などがなぜ長い年月を経て“新たな発見”として報じられるのか。調べてみると、そこには意外な経緯や関わった人たちの思いなどがありました。

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